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「いけね、コロッケ踏んじゃった。」
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三十三間堂
三十三間堂 posted by (C) Keiさんの写真

>三十三間堂で新成人が弓の引き初め

>京都市の国宝・三十三間堂の境内で、弓道の上級者と新成人が矢を射る
>「大的全国大会」が行われた。
>この大会は、江戸時代に三代将軍・徳川家光が弓を奨励したことに
>由来する伝統行事(14日) 【時事通信社】

時事ドットコム フォトニュース

時事通信社の上記リンクには、この大会の写真があります。

で、

この記事を読んだ時点で「ん?」と思った人、私以外にもいるはずです。

「家光・・・から・・・か?」と。


少なくとも私が知ってる話でも、
・尾張清洲藩松平忠吉の家来である浅岡重政が
家康から褒められて今後「天下一」と名乗っていいことになった。
という話があります。

では他所ニュースはどうでしょう?
全てweb上の記事です。

読売新聞・・・武士が一昼夜、射通した数を争ったとされる本堂の西側広場で(以下略)
(歴史には触れず)

朝日新聞・・・「大的(おおまと)全国大会」があった。
江戸時代に武士たちが118メートルある本堂の縁側のひさしの下を
端から端まで射抜いた「通し矢」にちなむ行事。
(好意的に解釈すれば、"江戸時代から始まった"とは書いてないからOK)

共同配信・・・通し矢は、一昼夜かけて本堂の端から端までの軒下約120メートルを
射通した矢の数を競った行事で、江戸期に最盛期を迎えた。
(各地ローカル新聞などはほぼこの記述どおり(共同配信をそのまま))
(いつから、は不明パターン)

TBS・・・通し矢は、江戸時代に武士が弓の腕前を競ったことに由来する
弓道連盟主催の公式試合で、参加者は真剣な眼差しで弓を射っていました。
(この試合の由来、
と考えればそれは前述の朝日のように、江戸時代の通し矢か・・・)

日テレ24・・・
三十三間堂の通し矢は、
室町時代に武士が弓の腕を競い合ったことが始まりとされている。
(ここへ来て新説が!・・・しかし正解かどうかわからん。
単に弓の腕を競い合うならもっと昔から・・・)

ま、歴史に興味のない人は、新聞のこんな季節行事記事の
由来についての豆知識なんて部分は、「ふーん」で読み飛ばすんだろうな、と思います。

しかしわかりにくいのですよ。
書く前に、その筋の人(弓道家)に聞く、とかしないのか?


弓道には「三十三間堂通し矢に特化した流派」というのもあるらしいです。

wikipedia 竹林派

これはしかし・・・
走り屋の「○○峠攻略法」「○○峠のシューマッハ」とかと
似たようなものでしょうかね?



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徳島城きれい
(写真は 徳島市HP内、公園緑地課「徳島中央公園」 から)

> 江戸時代に徳島藩主・蜂須賀家の居城だった徳島城跡が、国史跡に指定されることになった。
>県内では徳島市の蜂須賀家墓所、藍住町の勝瑞城館跡などに次いで七件目である。
>
> 築城以来、約二百八十年にわたって徳島の政治の中心だった徳島城跡が、
>国史跡になるのは喜ばしいことだ。
> しかし、大事なのはむしろこれからである。
 >貴重な城跡をどのように整備していくのか、行政と市民が知恵を出し合い、
>国史跡の名にふさわしい整備・活用を図ってもらいたい。

( 徳島新聞社説より抜粋 )


断言する。
阿波藩、蜂須賀氏の江戸時代、徳島城、
これら全てが、
私だけではなく全お城・歴史マニアからして”どうでもいい”に近いぐらい無名である。
皆が皆、口を揃えて
「ああ、あったよなぁ」
程度の回答をするであろうことは目に見えて…。

わたしが知ってることだと、稲田騒動?トード研究の…
って全部明治以降じゃん。じゃん。

漏れ聞くところでは、重税やお家騒動もあったと聞くけれど、
逆に有名でないということは
「なにかとあったろうけど、程よく江戸時代を過ごした」
ということで、藩政自体は、それはそれでいいことなんだろう、と思う。

じゃあ城は?最初は天守閣あったの?どれぐらいの規模?
とかなると、ちょっと思い出せない…。
というか、正直考えたこともなかった。ノーマーク。
で、上記画像を取ってきた徳島市HP見ると

なんだ、きれいじゃないか。

徳島市のHP作ってる人は、いい写真を使った!
これはきれいだ。
おまけに内には、上田宗箇の手による庭園があるらしい。

wikipedia 上田宗箇

ほほー。徳島でプラプラしてる時に作ったのね。
その後、あちこちの造園をしてるところから視るに、
この徳島城の庭園が造園家・上田宗箇の出世作じゃないのかな?
上モノは空襲で焼けたらしいけど、徳島いいもの持ってんじゃん。
抜粋した論説も、きわめて正論でお城をちゃんと整備しよう!と言ってるし、
素晴らしいな徳島。

いままでノーマークでごめんなさい。>徳島城
ネット上でもすこし調べたりしてみるですよはい。


余談。

江戸某区の、うちからほど近いとあるお寺には
「阿波徳島藩主蜂須賀家屋敷門」
というのが残っている。
「卍」のマークも誇らしげに。
ウキウキしながら解説板読んだら
「・・・というわけでなんでここにあるのか不明。
っていうか上中下、どの屋敷のなに門かわからない。」
と書いてあった気がする…。やっぱりみんな興味ないのか
不遇なり蜂須賀氏…。

これがその門。
武家屋敷門%%http://maps.google.co.jp/maps?&q=35.63927540165681,139.6780300140381+(%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%B1%8B%E6%95%B7%E9%96%80)&hl=ja&ie=UTF8&z=18%%35.63927540165681%%139.6780300140381%%18


これは徳島城
徳島城%%http://maps.google.co.jp/maps?&q=34.07278193318909,134.55673813819885+(%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E5%9F%8E)&hl=ja&ie=UTF8&z=17%%34.07278193318909%%134.55673813819885%%17
前田利家の大規模邸宅確認 佐賀、名護屋城の陣跡

豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592-98年)の拠点にした名護屋城(佐賀県唐津市鎮西町)の
近くに有力大名の前田利家が置いた陣跡(国特別史跡)の発掘調査がこのほど終了。
今回の調査で利家の大規模な邸宅跡が確認された。
調査した県立名護屋城博物館によると、利家は1592年から93年まで滞在。
敷地面積約3000平方メートルの邸宅跡からは、
住居とみられるL字形の建物跡(約135平方メートル)のほか、トイレや井戸の跡も出土し、
各設備の配置が推測できるという。
秀吉を迎えて茶会を開いたといわれる茶室の跡は確認できなかった。

「遊撃丸  海に浮かぶ馬渡島」だそうで。











(画像は呼子ネット観光案内より)

wikipedia名護屋城」によりますと、この城って
・元々の地元領主の城を接収。かわいそう。
名護屋氏ってその後どこいったんだろう?
・五~八ヶ月で急造
・なのに5重7階の天守がそびえて
・秀吉デフォの金箔瓦ですよ。
・諸大名の豪勢な屋敷が峰々に隙間なく立ち並び
・で、一年ほど使って廃棄。
あとから来た寺沢くんは別の場所に築城。


ま、大規模な都市開発はできそうにないですからね。
寺沢君の判断も正しい。
大量の諸大名屋敷とか貰っても、使い道困るし…。

しかしこの時代の(秀吉の)土木・建築力って本当に凄まじいなぁ。
おまけに北は津軽から南は島津まで、全国の大名がご近所に同居。
狭い狭い。
【名護屋城周辺の諸大名陣跡図】
これ見るたびに思うのが、意外な人が遠めに屋敷を構えてたりして、
なんか微妙な配置ですやね。
少なくとも、「前田利家が一番で、次家康ね」は
なんかすごく如実に表現してる気がするのですけれど。

秀吉はここへ全国の勢力押し込むことで、
「お前ら仲良くしろよ」的な、
いわゆる”合宿生活から共同体意識”を作ろうとしてたんじゃないかな。
おまけに共通の敵を作ることで、結束意識を高めよう、と。
(戦費捻出でみんなフトコロが寒くなるし)

この陣中にいる間、諸大名は盛んに交流を行って、
とある田舎大名が田舎っぷりで恥をかいたり、
逆に欝になっちゃう奴もいたりして、
でもかなり盛んに前述の予測通りの諸大名交流が行われています。

家康の屋敷址からは茶室が発見されています。
茶の湯自体に家康はあんまり興味なかったはずなんですけど、
秀吉政権時代は結構茶会を開いています。
それはひとえに「茶会やるからきてねー」「いくいくー」で、
親睦・・・というか政治的ななにか、があって、
それはつまり”有効活用できる”と思っていたのでしょうね。
ほんとはあんまり好きじゃないんだけど、
取引先との親睦でゴルフコンペ開催、みたいな。
自分が天下人になると、茶の湯政治はぷっつりやめちゃいます。
やっぱりあんまり好きじゃなかったらしい。

で、秀吉の思惑通りみんな仲良くなったはいいのですが、
仲良くなり方にもいわゆる好き嫌い…派閥がございまして…
結果的に「家康派」とか「豊臣閣僚派」「利家派」みたいな
グループができちゃってそれがまた関が原などへの布石と…。

「人が三人集まると、派閥ができる」

秀吉作戦、失敗。


あ、ついでに画像拝借したサイトから
名護屋城内の様子その1
名護屋城内の様子その2
呼子ネット観光案内より)
地元観光振興はいいことだ、うんうん。
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