藤原行成
平安時代の貴族にして書家。
和様といわれる書体を確立したとして、
行成を含めて「三蹟」と呼ばれる他の二人、小野道風、藤原佐理らよりも
一段高い評価を受けている。
・・・なのだけどさ、
この人の人生も、なんだかなぁ、と思うところがあるわけで。
えーと、
めんどくさくなるので、渾身の作の家系図置いときます。
(クリックで別窓拡大)
数字は「摂関の襲名順」。
つまりその時のナンバーワンが誰だったのか、ということ。
いろんなものが見えるのです。
たとえば1と2の間の時平はなぜなってないの?というと、
最大級のライバル菅原道真がいたから・・・
3のあと息子に行かなかったのはなぜかというと、
天皇の外戚になり損ねた&息子が割と早死にしたから。
5と7の間が不自然なのは、
その兄弟仲悪くって、5が7にどうしても権力委譲したくなかったから。
そのあと不自然に道長(10)まで横流れするのは、
みんなボロボロ若死にしたから。
さて、藤原行成ですが。
天皇の外戚として、藤原氏のナンバーワンとして権勢を振るった、
一条摂政謙徳公・藤原伊尹の孫に生まれました。
お父さんはその御曹司でかつ、美貌の歌人で知られた藤原義孝。
かつ、
行成は生まれた直後に、偉大なる爺さんの養子になったのです。
ここまでは順風満帆。っていうか普通の人にはあり得ない境遇。
ところが、
その年の内に権勢を振るった爺さんが死亡。
二年後に父・義孝も21歳で死亡。
おまけにこの死因、
美男子だったのに、疱瘡で顔が醜くなったのを悲しんで自殺した、
とも言われている。
勝手な親父だよおい。息子どうすんのよ!?
おまけにそのあと
「ブサイクになったのが悔しくて悔しくて怨霊になった」とも言われてるのです。
どこまで勝手なんだ親父!
お陰でこの家系没落。
これほどの血筋の御曹司なら本来、
順調に後ろ盾があれば、10代前半でもういい位貰って、
20前にはすごい高い位置へ行っちゃうのだけれど、
爺さんはいない。親父はいない。親戚同士は権力闘争。
なんの後ろ盾もない”かつての御曹司”・行成は、
20過ぎても大した位も仕事もなく、ただ下っ端のほうの仕事をこなしていた。
毎日の日記をつけ始めたのもこの頃です。
ところが転機が、というか事件が訪れるのです。
ある日、天皇の御前で、和歌に関する議論が起こったのです。
一方の当事者は行成その人。
相手は売り出し中の青年貴公子、藤原実方。
この議論、地味だけどでも行成は一歩も引かなかった。
で、相手の青年貴族はお坊ちゃん育ち。
おまけに普段から気性が荒くて有名だったのです。
むっかーーーー!もしかして俺のことバカにしてるぅ!?
と、持ってた勺(しゃく)で行成の頭をぱーんと叩いてしまった。
そしたら、烏帽子が落ちた。
当時烏帽子が落ちて、素頭を見せちゃうことを「露頂」といって、
凄まじく恥ずかしいことだとされていたのです。
露頂しちゃって引き篭もった人もいるぐらいです。
えーと、現代感覚で言うなら、人前でパンツ下ろされて、
そのままブレーンバスターで振り回されてる、と思ってください。
座の一同が「うわーめっちゃやっべええーーーーー!」となったのだけれど、
行成は全く慌てず、
雑用係に言って拾ってもらってそっと被りなおして、終了。
怒る事もありませんでした。
ここいら辺は、さすがに下積みが長いだけあったのか、
地味な自分と違って、
相手の敵わない身分や敵わない後ろ盾を感じていたのか。
しかしながら、ここに激怒している人がひとりいました。
結構モーレツで知られた当時の天皇です。
実方をちょっと来いやぁーわれぇー!、と呼びまして、
「お前よー、そんなに激論するほど和歌好きなんだろ?
じゃあさ、歌枕(歌に読み込まれる諸国の地名・名物。都育ちの公家は当然見たことない)
ってのさ、実際に見て来いよああああああん?天皇命令。」
という風流な理由で、陸奥国つまり東北つまり当時の感覚では世界の果てへ、
「陸奥守」、つまりは左遷と言う名の島流しにしてしまいます。
実方は任地だか行路だかで死亡。
その後は怨霊化したと言われています。
この時代、なんでも怨霊だなぁ。
「それにしてもあの下っ端貴族、
下っ端だからあんまり見たことないけど、いい根性してるじゃないか。」
天皇がそう思ってた所、行成には更なる幸運が舞い込むのです。
ただしこれは実は幸運ではない。行成の人徳。
行成の親友にして、天皇のお気に入りの源俊賢が、昇進することになりました。
彼がいままで長く勤めていたのは、天皇の側近中の側近であり、
その後の出世確実な要職である「蔵人頭」。
みんなが羨むポジションで、当然各派閥の猟官暗躍が予想されます。
「俊賢さぁ、お前が昇進するとポスト空くじゃん?蔵人頭、誰がいいと思う?」
と聞かれて俊賢は待ってました!と
「実は心当たりがあるんですよ。
そいつのこと、帝も知ってますよ。
実直で、権力争いとは無縁で、でも家柄はいいのが。」
というわけで、
出世階段数段ひらりと飛び越えて、
鳴かず飛ばずの後見も無しの地下貴族、藤原行成が
世間をあっと言わせる大抜擢をされることになりました。行成23歳。
ただしここには、
13歳年上の醍醐源氏一派のリーダー・源俊賢の、
自分に有利な人事で権力構築、という目的もあり、
その背後にはオレ派閥を着々と構成しつつある、
時の大権力者・藤原道長の存在があったことは否定できません。
かの有名な、時の国家を全て意のままに操るほどの男・藤原道長。
でもこの道長は実は、
行成のお爺さんから見ると「弟の家系」「それも端っこ」にあたるのです。
大権力者の爺さんと、
あの美貌の父ちゃんがもう少し長生きしていたら、
この弟の家系への権力の軸の移動は、なかったかもしれないのです。
つまり、
本来この道長と行成の地位は、逆だったかも知れないのです。
華やかな、世界の中心に立つ光の道長と、
その権勢の一端を担いつつ、その権勢によって生きている墨蹟の如き自分。
そのことを本人は、どう思っていたかはわからないけれど。
行成は道長と帝の両方から信頼を寄せられ、
蔵人頭からあとは要職や実入りのいい職を歴任します。
位もコツコツどんどん上がっていきます。
また若い頃の下積みと勉強がモノを言って、
「宮廷行事のあれこれ細かいことに詳しい人」
いわゆる”有職故実”通として珍重されます。
行成がメモった宮廷行事マニュアルが、
後々まで基本マニュアルとして使用されたぐらい、
彼の仕事はきっちりしていたのです。
また、当時から「書の達人」として有名でした。
(のち行成の家系は、書道の名家として続いていきます。)
ある時、道長から自分が持ってない本を借ります。
当時は本を借りたら、自分で書き写すものでした。
コピーです。人力コピー。
お陰で字の間違いとか、同じ書物なのに
なんとか院本とかなんとか家本とかいろいろ出来ちゃうのですけれど。
借りた本は比叡山の高僧・源信が書いた「往生要集」。
当時流行ってた末世とかそういったブームの解説本というか、
つまりは
「死んだらお前も極楽へ行ける!かんたん極楽往生マニュアル」。
日本を越えて海外・中国でもブームになった本です。
これを行成は借りて、人力コピーします。
で、返しに行った時に道長はこう言ったのです。
「・・・なんだよー、これ、俺が貸したほうの本じゃん。
”お前が書き写したほう”が欲しかったのによー(笑)」
・・・道長という人にはこういう、”ひとたらし”的な部分があります。
大権力者なのに軽率なぐらい気軽な部分があり、
味方には最大限に甘く、敵にはとことん厳しい人なのです。
前述したように、道長に対していろんな感情はあるかもしれません。
それでも書家として、こんなこと言われたらどう思うでしょうか?
アーティストとして!
晩年も順調に、最大で、正二位大納言。
そんな高い高いところまで出世します。
有職故実。書家としても声望高く。
もはや立派な大貴族です。
そして、最後の事件が起こるのです。
行成の人生の全てを簡潔に表すような事件が。
生前にあれほど声望のあった立派な貴族にして書家、
そんな行成が死んだのです。
結構な大イベントのはずなのです。
享年五十歳。当時としてはまぁそんなもの。
ただし、
同年同月同日、藤原道長死亡。
ここに、光と影が同時に死亡、ということになりました。
世間は時の大権力者の死に大騒ぎとなりました。
なんせ絶対権力者だったわけで、もう国が転覆したぐらいの勢いです。
かつ、その後継の代になると確実に、
政治がちょっと不安定になる予感を、誰もが感じていたのです。
というわけで、行成の死は当時、全く話題になりませんでした。
しょぼーん。
「もしかしたら藤原道長になっていたかもしれない、道長の影の男」
そんな行成。
でも怨霊にはならなかった。
影は影らしく黒々と、
柔らかくそれでいて力ある「和様」の墨蹟を今に残しております。
書道を勉強する上では、避けては通れないほどのビッグネームとなって。
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