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「いけね、コロッケ踏んじゃった。」
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ディオゴ結城の墓碑か 阿波市市場町、“名”刻まれた石発見

ディエゴ結城の墓

阿波出身で、カトリックの「福者」になることが決まった
江戸時代初頭の神父・ディオゴ結城を指すとされる「不慶」と刻まれた墓碑が、
阿波市市場町犬墓で見つかった。
足利将軍家の末えい「阿波公方」の重臣で、
ディオゴとかかわりが深い荒井家の墓地にあり、
一六三六年の殉教後、五十-百年たって建立されたとみられる。
専門家によると、県内にはほとんど残っていない禁教令時代の
キリスト教関連の遺物としても貴重だという。

徳島新聞社 2007/08/20


で、その墓の画像はこっち。
新聞社のトコから消えるかもしれないからとっとく。


なんか複雑なのである。
ディオゴ結城とやらは、
なかなかにダイナミックな人生を送っているのですよ。

ディオゴ結城了雪 - カトリック中央協議会

1574年、阿波生まれ。長じて高槻のセミナリヨで学ぶ。

1587年に秀吉の禁教令でかな?長崎生月に追放。でも監禁先から有馬に逃走。
1595年に天草でイエズス会に入会。河内浦のコレジヨでさらに学ぶ。
1601年から3年間、中浦ジュリアンとともにマカオに留学。
1607年に伏見の教会に任命。徳島に渡って蜂須賀家政と足利義種の前で神の教えを述べた。
1612年に司祭になる叙階のために有馬に呼ばれる。
1614年、高山右近とともにマニラに追放。翌年に現地で司祭になれた。
マニラにいたイエズス会のレデスマ管区長のコメントがあって、
要約すると「くそまじめな日本人」
1616年、秘かに長崎に帰還。京都に派遣。
1619年の京都の大殉教の時には難を逃れ、殉教者の遺体を葬った。
1636年2月、大坂で穴吊りの刑。享年61歳。

この捕縛された時に、「協力者の名前を吐け」と言われたけれど、
「20年ほど誰の協力も得てないよ。食べ物は山で自然から調達しました」
と言い張ったことが伝えられているらしい。

自称「自給自足生活な、エコでロハスなキリシタン」。



で、まとめますと。
・くそまじめ。宗教的盲信・・・いやいや、一途さかもしれないけれどまじめ。
・頑張って布教を続けて、北は津軽から九州まで日本全国を回った。
・外国(マニラ)も行ったことがある。
・特に「畿内最後の大物キリシタン」だったことで有名。
・捕まえるにあたって協力したのが、平島公方の家臣、荒木某。
・でもディオゴ自体にも、平島公方の家臣出身という説、
それどころか平島公方の一族縁者説もある。
・荒木某の一族墓地の隅で見つかった。
・どうやら荒木某がディオゴの死を哀れんで、
もしくは自責の念で建てたらしい。

平島公方といえば”歴史好き”からしたらたまらない素材であり、
どうにか中央への復帰、
せめてもう少しいい扱いでの取立てを延々と望んでいた立場で。
当時は領主の蜂須賀さんからも冷遇され、
中央(秀吉家康方面)から無視され、
自分の庇護者(三好や長宗我部)はどんどんいなくなり、
という、切ないドツボ街道の入り口に立った状態。

平島公方の一派からしたら、自分の家臣ないしは一族から、
「畿内最後の大物キリシタン宣教師」を輩出しているとなったら、
これはもうやベー事態であったはずで。

で、捕縛に協力したのが平島公方家臣、と。


ま、びみょーな時代なんですけれどね。
禁教とかされてる割には、キリシタン大名も割と残ってるし。
当時の徳島藩主の蜂須賀家政が既に、
一応キリシタン大名でした、ということになっているし。

秀吉から家康にかけての若い大名(の跡取り)って、
「キリシタン大名だった」っての多いよなぁ、と思う。
多分、さほどの宗教熱心さがあったわけではなく、
若者らしく、新しい文化への憧れやブームとか、
キリシタンに理解を示すことでの外国貿易の可能性とか、
そういうことなんだろうとは思うけれど。


それより、最近なんだかキリシタン関連のものがやたらと見つかってない?
ディオゴも、
「今年六月に福者(聖者のひとつ下の、要するにキリスト教貢献者認定)に認定された」
というタイミングで墓認定。

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酒飲んでいる信玄公 - 2月6日8時0分配信 産経新聞

戦国時代の武将、武田信玄が、
家臣らと酒宴を楽しむ姿を描いた屏風(びょうぶ)が見つかり、
所有する井伊美術館(京都市東山区)が5日、関係者に公開した。

昨春に滋賀県内の古美術商から購入したといい、
箱には「機山公(信玄)遊宴図」と書かれいる。
信玄の絵は具足をつけた「武田二十四将図」などが知られるが、
酒席の絵は極めて珍しい。

描いた作者も年代も不明だが、
胸をはだけ杯を手にした普段着姿の信玄の前には、
酒のつまみやまんじゅうが置かれ、踊りを披露する家臣の姿も。

( Yahooニュース殿より抜粋。元記事は産経新聞殿らしい )

--------------------------------------------------------
山県だけに赤い酒
別な新聞サイトの記事では、
「越前の山県家の子孫が描かせたものらしい」とか。
そういえばいたね、越前に子孫が。
山県昌景 - 昌久 - 昌時(正時) - 以降家老格、って続く。

・「山県姓(昔と現在)」( 赤備え 殿 )

この子孫は家禄3000石以上+預かり5000ぐらい、
最大で一万石いったらしいから、ニセ子孫ってことはないと思うのです。

というか、越前家の名族狩りはすごいよ。
結城秀康とか忠直って、新進の大大名で家臣不足だし、
将軍家への対抗心とかもあったんだろうと思う。
抱えられる側としても「俺は○○の子孫だから」という自負心も
あったのだと思う。「適当な小大名に、少禄では仕えないよ」と。

ただ、越前家のコレクションはなんか、凄いのよ。

前に興味があってメモったことがあって、
コピペ列挙するとですね・・・


関東勢 (主に結城家の関連)
・太田資正の次男、 資武(大坂の陣では戦奉行までやった)
・の兄の、梶原政景
・多賀谷重経の息子
・多賀谷政広
・岩上朝堅
・皆川広照、勝照親子
・小田氏治の次男、守治
・常陸国江戸崎城主の子孫
・江戸重通の子、宣通

単独で当代スター級選手
・御宿勘兵衛
・四王天政実(明智光秀の臣)
・永見民部(家康の隠し子)
・嵐追手之助(天下一と言われた相撲取り)
・大井田監物(房仲。上杉家臣大井田氏。二万石も貰ってたらしい)
・荻田主馬(千石だったのに、有名だと知れて急に1万石になったらしい)

北条、武田旧臣
・真田昌輝(長篠で討死。昌幸の兄に当たる)の子
・大道寺政繁の子孫
・小田原北条氏の家老衆、富永氏の子孫
・小田原北条氏の舟大将、山本氏
・甲斐武田氏の家臣、原氏の子孫
・同じく、土屋の遺児
・山本勘助の子孫
・その他関が原以降に、
大量に元真田昌幸家臣(なんだか、ぁゃιぃ動きを(笑))

その他地域から
・織田信清の子、津田信益
・斯波義重の子
・安藤守就の三男
・谷衛友の二男
・讃岐国香西城主の子
・駿河伊達氏の子孫
・信濃高梨氏の子

主に徳川三河系
・本多重次の子、成重
・の従兄弟、富正
・石川数正の嫡子成綱(いろいろ問題と運命があり逼塞していた)
・安藤直次の従兄弟
・井上正就の兄
・駿河岡部の親族
・近藤秀用の次男
・依田信蕃の息子(加藤四郎兵衛宗月。この人の人生は難しい…)

昔、ちょっと調べものであちこちのサイト回って、
ざっと作ったメモリストだから、正誤は責任負えない。
でも、

うわーなんかすごく、合戦に勝てそうな気がする。
どこの合戦か知らないけど。

これらを、カリスマでなんとなくうまくまとめていたというから、
結城秀康&忠直はすごいなぁ、と思う。
(御宿勘兵衛は突っ張って出奔したけど)
秀康って歴史ヲタ的には「あいつがいれば」という話題での
存在感でかいけど、享年34歳よ、あいつ。

若い。



で、ぐるーーーっと話を戻すと
山県の子孫はその後福井藩において、
・召抱えられる時「笹治の一族になれ」と命令された
・昌景ってつまり徳川と戦ったことがあるので、憚って笹治に改名
の二説あるけど、とりあえず「改姓」してるのですよ。
山県に戻すのは、ずいぶん経ってから。

なのに信玄一味の屏風を描かせて、
おまけに酒呑んで楽しそうなのって、

いみ  わか  らーん

その製作意図はなんだ?
幕末ぐらいなのかな?

福岡城築城400年 大いに盛り上げよう 福岡藩伝柳生新影流を奉納

福岡藩に伝わる剣法・柳生新影流の演武会が3日、
藩祖黒田如水と初代長政をまつる福岡市中央区西公園の
光雲(てるも)神社であった。

太兵衛の子孫はやっぱり槍・・・
画像・記事ともに西日本新聞

ほー、福岡城も400周年か。
それはともかく。
>福岡藩伝柳生新影流の勇ましい槍術を披露する母里忠一さん(左)

>母里さんは、太兵衛24代目の末裔。
>生まれ育った福岡部の旧呉服町(中央区舞鶴2丁目)で居酒屋を経営している。

「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を」
の子孫が 居 酒 屋 で、新陰流の 槍 の 達 人 ですか。
なんつーか、世間の歴史マニアの期待を一切裏切らないステキ子孫ですな。
福岡藩伝柳生新影流の技を受け継ぐ居酒屋・・・。

なんでも
>太兵衛は福岡藩の城郭建設などを担当する普請奉行で、
>福岡城築城にも携わったという。
>太兵衛の技を受け継いだ末裔は明治以降、地元で左官業を営んだ。
>母里さんも家業を継いだが、田中角栄元首相の「日本列島改造論」が
>台頭した1970年代、大手ゼネコンの進出を受けて店を閉じ、居酒屋に転身した。

数万石の、大名並の禄を食む普請奉行の子孫が代々、
左官技術を受け継いでいる?かはさておき、
今日はこの一言に尽きる。

「母里太兵衛の子孫が槍を振り回しながら居酒屋」
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