忍者ブログ
「いけね、コロッケ踏んじゃった。」
[13] [12] [10] [8] [7] [6] [5] [4] [3] [21] [27]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

前田利家の大規模邸宅確認 佐賀、名護屋城の陣跡

豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592-98年)の拠点にした名護屋城(佐賀県唐津市鎮西町)の
近くに有力大名の前田利家が置いた陣跡(国特別史跡)の発掘調査がこのほど終了。
今回の調査で利家の大規模な邸宅跡が確認された。
調査した県立名護屋城博物館によると、利家は1592年から93年まで滞在。
敷地面積約3000平方メートルの邸宅跡からは、
住居とみられるL字形の建物跡(約135平方メートル)のほか、トイレや井戸の跡も出土し、
各設備の配置が推測できるという。
秀吉を迎えて茶会を開いたといわれる茶室の跡は確認できなかった。

「遊撃丸  海に浮かぶ馬渡島」だそうで。











(画像は呼子ネット観光案内より)

wikipedia名護屋城」によりますと、この城って
・元々の地元領主の城を接収。かわいそう。
名護屋氏ってその後どこいったんだろう?
・五~八ヶ月で急造
・なのに5重7階の天守がそびえて
・秀吉デフォの金箔瓦ですよ。
・諸大名の豪勢な屋敷が峰々に隙間なく立ち並び
・で、一年ほど使って廃棄。
あとから来た寺沢くんは別の場所に築城。


ま、大規模な都市開発はできそうにないですからね。
寺沢君の判断も正しい。
大量の諸大名屋敷とか貰っても、使い道困るし…。

しかしこの時代の(秀吉の)土木・建築力って本当に凄まじいなぁ。
おまけに北は津軽から南は島津まで、全国の大名がご近所に同居。
狭い狭い。
【名護屋城周辺の諸大名陣跡図】
これ見るたびに思うのが、意外な人が遠めに屋敷を構えてたりして、
なんか微妙な配置ですやね。
少なくとも、「前田利家が一番で、次家康ね」は
なんかすごく如実に表現してる気がするのですけれど。

秀吉はここへ全国の勢力押し込むことで、
「お前ら仲良くしろよ」的な、
いわゆる”合宿生活から共同体意識”を作ろうとしてたんじゃないかな。
おまけに共通の敵を作ることで、結束意識を高めよう、と。
(戦費捻出でみんなフトコロが寒くなるし)

この陣中にいる間、諸大名は盛んに交流を行って、
とある田舎大名が田舎っぷりで恥をかいたり、
逆に欝になっちゃう奴もいたりして、
でもかなり盛んに前述の予測通りの諸大名交流が行われています。

家康の屋敷址からは茶室が発見されています。
茶の湯自体に家康はあんまり興味なかったはずなんですけど、
秀吉政権時代は結構茶会を開いています。
それはひとえに「茶会やるからきてねー」「いくいくー」で、
親睦・・・というか政治的ななにか、があって、
それはつまり”有効活用できる”と思っていたのでしょうね。
ほんとはあんまり好きじゃないんだけど、
取引先との親睦でゴルフコンペ開催、みたいな。
自分が天下人になると、茶の湯政治はぷっつりやめちゃいます。
やっぱりあんまり好きじゃなかったらしい。

で、秀吉の思惑通りみんな仲良くなったはいいのですが、
仲良くなり方にもいわゆる好き嫌い…派閥がございまして…
結果的に「家康派」とか「豊臣閣僚派」「利家派」みたいな
グループができちゃってそれがまた関が原などへの布石と…。

「人が三人集まると、派閥ができる」

秀吉作戦、失敗。


あ、ついでに画像拝借したサイトから
名護屋城内の様子その1
名護屋城内の様子その2
呼子ネット観光案内より)
地元観光振興はいいことだ、うんうん。
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
忍者検索

shinobi ブログ内検索
忍者AD
忍者貯蓄
忍者解析






QR
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 歴史のバカ。 All Rights Reserved
忍者ブログ / [PR]