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「藤原氏」


日本の歴史を語る上で、天皇家の次になくてはならない、
というかダブル主役級と言ってもいい一族。
上は位人臣を極める位置から、下は名もなきに等しい地方武士。
というか現代ではパーフェクト平民までが藤原氏。

そんな藤原氏は、たったひとつの血脈から発生しているのは、
小学校レベルの日本史知識だと思う。

中臣鎌足(藤原鎌足) --- 藤原不比等 --- ・・・

ここから、全ての藤原氏が始まっている。
この不比等の、
つまり全国藤原氏の共通のご先祖の墓が、
近年発見されたりしたこともあるのだけれど、
まぁそれはいつかの機会に置いといて、
実はこの藤原不比等、
鎌足の次男だったことはあまり知られていないのです。

「じゃあ長男はどこ行っちゃったんだ?
よくある早世?」

というわけではなく、立派に成人しているのです。



藤原不比等は次男。
兄の名前は「藤原真人」と言います。

なにしろ聡明で、勉強大好きで、
一度読んだ本は忘れなかったとか。
父・鎌足はそんな息子に期待をかけて「真人」と名乗らせます。
真の人、「パーフェクトマン」ですよ。
つかそもそもパーフェクトマンとか、
「だれも等しく比べようがない(不可能)」=不比等、とか、
鎌足、息子に期待し過ぎです。

そして不可解なのは、
鎌足ったらそんな息子に大きく期待した上で、
「出家させちゃう」
のです。ハァ?


出家して「定恵」と名乗ります。定慧、貞恵とも。


当時は仏教はそりゃ流行中の最先端の文化でしたけれど、
だからって時の実際の最高権力者にも等しい鎌足が、
なんでまた優秀な長男を・・・?と疑問が湧くわけなのです。

生まれたのが643年。
たぶん本を読み出したのがそれから数年後、
それで期待して出家させるのはさらに数年後。
大化の改新で鎌足と中大兄皇子が権力を掌握するのが645年。
その後鎌足は、多少の動乱期ではあるにしても、
中大兄皇子の側近として実際の権力を手中にしているわけですから、
なにもこの局面で、長男を出家させなくても・・・となるのです。

これには諸説あるらしく、なんとも言い難いらしいのですが。

「なにせ神祇系の中臣氏、仏教勢力とは距離があった。
だから仏教勢力(海外勢力)を取り込もうとした」
「朝廷内の旧勢力に対する、
”中臣氏はそんなに繁栄する意志はないですよ”というポーズ」
「不比等の同母兄とされているが、実は違う」
「実はそもそも鎌足の子供ではない」
「留学に有利だったから (後述)」

などなど。
でも鎌足父ちゃん(親バカ)は一応、
留学経験もある日本最高レベルの僧侶の下で出家させているので、
ある程度大事にしてたというのは窺い知れるのです。

そしてこの定恵もまた、留学に出るのです。
第二回遣唐使団に入り、はるばる唐を目指します。
・・・無茶するなぁ、と。
この当時の遣唐使は、行きに博打、帰りに博打な、
「生きて帰ってきたらすごくラッキーだね」
という旅なのです。
実際この第二回でも、遭難者(船)が出ています。
それも643年生まれの第二回遣唐使が653年だから。
・・・10歳ってそれ無茶し過ぎじゃないかと。

しかし定恵くんは無事に唐に入国します。
唐の都、長安にて、かの玄奘三蔵の弟子に相当する僧に付き、
いろんな本を読んで、いろいろ遊学して、
12年間の留学生活を送った定恵は、
655年、唐から大和朝廷への使節に同行して、無事帰国します。

この途中、大和朝廷と仲がよかった百済に寄り道しまして、
そこで、
「四行詩読んで遊ぼうぜ」「いいよー」「じゃ最初は定恵な、」「んーと、じゃあ」
と切り出した二行が素晴らしすぎて、
誰も続き二行がつけられなかった、という伝説が残っています。

で、これがほとんど唯一のエピソードになります。

帰国した彼を待っていたのは、
もはや日本の人臣最高権力者というほどに登りつめた父親鎌足、
そして留学中に生まれた弟、不比等くん七歳。

さぁ、期待の息子が帰朝しました。出家してますけれど・・・。
これから、かの鎌足の長男として、留学帰りのエリート青年として、
素晴らしい活躍が見込まれるのです。

という舞台に登った途端、帰朝後3ヶ月で死亡。享年23歳・・・。

なんでも、
百済の某が定恵の才能に嫉妬して、
ムカつくので毒殺した、と伝わっております・・・。



父に先立つこと4年。
鎌足死亡後に、まだ幼い総領(不比等)を擁する、
朝廷内の新興勢力である藤原氏が多少動揺した史実を考えると、
この長男が俗体で、健康で生きていたらどんなにか、と。

ま、死んじゃったものはしょうがない。



この定恵が開祖と伝えられる寺(神社)が全国に数ヶ所、
特に有名なのが三ヶ所残っております。
ひとつは奈良県桜井市の聖林寺。
聖林寺ホームページ
ここは後述する談山神社の元となった寺の別院だそうで。
で、同じく桜井の談山神社。
談山神社公式サイト
全国藤原氏の頂点に君臨するこの談山神社はそもそも、
藤原一族の祖・鎌足の死後、
摂津国にあった鎌足の墓をここに移し、寺を建立したのが始まりだそうで。
定恵が。
・・・いや、定恵が先に死んでますから。
っていうかその寺建立した年にはもう死んでますから。
それと鎌足の墓は摂津のその地点にありまして、近年発掘されましたから。

でも、
元明天皇が死んだ時(721年)、陵地選定したのが定恵という説もあり。
その頃70歳過ぎかな、計算上では。


で、もう一ヶ所は神戸にある太山寺。
三身山太山寺
ここは開祖が定恵となっていますが、
「それは名目上の」ということが明確になっています。
実際立てたのは不比等の息子、藤原宇合。
夢の中に薬師如来が出て、定恵がどうのと言ったから云々、という
由来が伝わっていますが、つまりはこういうこと。



「会った事もないけれどさ、定恵叔父さんって・・・。
なんだったんだろうな叔父さん。
・・・俺、寺建てるわ。叔父さん記念の。」



ま、そんな感じじゃない?

と思いたいだけ。




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