福島城跡内郭は中世に構築と断定
五所川原市相内の福島城跡の内郭が、
十四世紀後半から十五世紀前半の中世(室町時代)に構築されたことが、
県教委による二十七日までの発掘調査で明らかになった。
同市十三にある国史跡・十三湊遺跡が港湾都市として栄えた最盛期と
年代が一致したことになり、県教委文化財保護課は
「これまで古代か中世かとさまざま議論されてきた内郭の成立年代が、
中世と分かったのは大きな成果。今後の調査で、十三湊との関連性を明らかにしたい」
と話している。
http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2007/20070928091841.asp
東奥日報 2007年9月28日(金)
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はぁ、福島城っすか。青森五所川原の。
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これってでも以前は
「中世の遺物が出なかった。
なのでもっと古い城である。十三湊とは関係がない。」
とか言ってた気がするのですけれど、
つまり今回、
「中世の遺物が出た。十三湊と関係あるかも。」
ということですな。
どっちにせよ十三湊なんだな。
十三湊ってのは昔、この付近の、
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こんなところにあったらしい、大港湾都市のこと。
衛星写真ちょっと引いてみてください。
「は?えーと、なんでここに?」
とか思うだろうから。
だけど、
鎌倉時代から室町時代ぐらいには「日本三大港」として、
博多、堺と並ぶ勢いの大港湾都市で、
こんなところから大陸と直接貿易をやってたらしい。
「こんなところ」というのは失礼だけれど、
やっぱり大抵の現代日本人の感覚だと、そんな感じだと思う。
なんでこんな北の最果てで?と。
でも実はよくわかっていない。
大体、伝承的に十三湊があったらしいよという話が
残ってはいたけれどそれがどこだか
ちーっともわからなかったし。
「ガセネタだよ」説もあったぐらいで。
「津波で一晩で消えた」という伝承もあって、
支配していた安東氏の歴史がそもそも半端にしか解明されていないし、
手がかりはないし。
近年、まさか丸々埋まってるというのが発見されるまでは。
その後十三湊はどんどん寂れていって、
多分あんまりすごい勢いで寂れたから「一晩で消えた」とか言われたんだろうな。
でもいまだによくわからないところが多すぎるのです。
多分、この辺の歴史究明に、
人的資源と資本力が投入されていないからだと思うのだけれど。
福島城もそんな十三湊に近く、
おなじ十三湖に面しているので、
「十三湊を支配した城だ」
「いやたまたま近所にあるだけの遺跡だ」
とか議論があるまま、いまだに解明されていないのだろうなあ。
トーホグで裏日本だけどさ、
もう少し何とかしてあげたい。
と、北陸で裏日本出身の自分が言う。言うだけ。
申し訳ない。
だって自分が研究者だったら、
こんな北の果てで埋もれた都市を発掘するのは・・・
なんとなく嫌だ・・・寂しい。
北国の人間は、好き好んで寒いところへは行かない。
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「藤原氏」
日本の歴史を語る上で、天皇家の次になくてはならない、
というかダブル主役級と言ってもいい一族。
上は位人臣を極める位置から、下は名もなきに等しい地方武士。
というか現代ではパーフェクト平民までが藤原氏。
そんな藤原氏は、たったひとつの血脈から発生しているのは、
小学校レベルの日本史知識だと思う。
中臣鎌足(藤原鎌足) --- 藤原不比等 --- ・・・
ここから、全ての藤原氏が始まっている。
この不比等の、
つまり全国藤原氏の共通のご先祖の墓が、
近年発見されたりしたこともあるのだけれど、
まぁそれはいつかの機会に置いといて、
実はこの藤原不比等、
鎌足の次男だったことはあまり知られていないのです。
「じゃあ長男はどこ行っちゃったんだ?
よくある早世?」
というわけではなく、立派に成人しているのです。
藤原不比等は次男。
兄の名前は「藤原真人」と言います。
なにしろ聡明で、勉強大好きで、
一度読んだ本は忘れなかったとか。
父・鎌足はそんな息子に期待をかけて「真人」と名乗らせます。
真の人、「パーフェクトマン」ですよ。
つかそもそもパーフェクトマンとか、
「だれも等しく比べようがない(不可能)」=不比等、とか、
鎌足、息子に期待し過ぎです。
そして不可解なのは、
鎌足ったらそんな息子に大きく期待した上で、
「出家させちゃう」
のです。ハァ?
出家して「定恵」と名乗ります。定慧、貞恵とも。
当時は仏教はそりゃ流行中の最先端の文化でしたけれど、
だからって時の実際の最高権力者にも等しい鎌足が、
なんでまた優秀な長男を・・・?と疑問が湧くわけなのです。
生まれたのが643年。
たぶん本を読み出したのがそれから数年後、
それで期待して出家させるのはさらに数年後。
大化の改新で鎌足と中大兄皇子が権力を掌握するのが645年。
その後鎌足は、多少の動乱期ではあるにしても、
中大兄皇子の側近として実際の権力を手中にしているわけですから、
なにもこの局面で、長男を出家させなくても・・・となるのです。
これには諸説あるらしく、なんとも言い難いらしいのですが。
「なにせ神祇系の中臣氏、仏教勢力とは距離があった。
だから仏教勢力(海外勢力)を取り込もうとした」
「朝廷内の旧勢力に対する、
”中臣氏はそんなに繁栄する意志はないですよ”というポーズ」
「不比等の同母兄とされているが、実は違う」
「実はそもそも鎌足の子供ではない」
「留学に有利だったから (後述)」
などなど。
でも鎌足父ちゃん(親バカ)は一応、
留学経験もある日本最高レベルの僧侶の下で出家させているので、
ある程度大事にしてたというのは窺い知れるのです。
そしてこの定恵もまた、留学に出るのです。
第二回遣唐使団に入り、はるばる唐を目指します。
・・・無茶するなぁ、と。
この当時の遣唐使は、行きに博打、帰りに博打な、
「生きて帰ってきたらすごくラッキーだね」
という旅なのです。
実際この第二回でも、遭難者(船)が出ています。
それも643年生まれの第二回遣唐使が653年だから。
・・・10歳ってそれ無茶し過ぎじゃないかと。
しかし定恵くんは無事に唐に入国します。
唐の都、長安にて、かの玄奘三蔵の弟子に相当する僧に付き、
いろんな本を読んで、いろいろ遊学して、
12年間の留学生活を送った定恵は、
655年、唐から大和朝廷への使節に同行して、無事帰国します。
この途中、大和朝廷と仲がよかった百済に寄り道しまして、
そこで、
「四行詩読んで遊ぼうぜ」「いいよー」「じゃ最初は定恵な、」「んーと、じゃあ」
と切り出した二行が素晴らしすぎて、
誰も続き二行がつけられなかった、という伝説が残っています。
で、これがほとんど唯一のエピソードになります。
帰国した彼を待っていたのは、
もはや日本の人臣最高権力者というほどに登りつめた父親鎌足、
そして留学中に生まれた弟、不比等くん七歳。
さぁ、期待の息子が帰朝しました。出家してますけれど・・・。
これから、かの鎌足の長男として、留学帰りのエリート青年として、
素晴らしい活躍が見込まれるのです。
という舞台に登った途端、帰朝後3ヶ月で死亡。享年23歳・・・。
なんでも、
百済の某が定恵の才能に嫉妬して、
ムカつくので毒殺した、と伝わっております・・・。
父に先立つこと4年。
鎌足死亡後に、まだ幼い総領(不比等)を擁する、
朝廷内の新興勢力である藤原氏が多少動揺した史実を考えると、
この長男が俗体で、健康で生きていたらどんなにか、と。
ま、死んじゃったものはしょうがない。
この定恵が開祖と伝えられる寺(神社)が全国に数ヶ所、
特に有名なのが三ヶ所残っております。
ひとつは奈良県桜井市の聖林寺。
・ 聖林寺ホームページ
ここは後述する談山神社の元となった寺の別院だそうで。
で、同じく桜井の談山神社。
・ 談山神社公式サイト
全国藤原氏の頂点に君臨するこの談山神社はそもそも、
藤原一族の祖・鎌足の死後、
摂津国にあった鎌足の墓をここに移し、寺を建立したのが始まりだそうで。
定恵が。
・・・いや、定恵が先に死んでますから。
っていうかその寺建立した年にはもう死んでますから。
それと鎌足の墓は摂津のその地点にありまして、近年発掘されましたから。
でも、
元明天皇が死んだ時(721年)、陵地選定したのが定恵という説もあり。
その頃70歳過ぎかな、計算上では。
で、もう一ヶ所は神戸にある太山寺。
・ 三身山太山寺
ここは開祖が定恵となっていますが、
「それは名目上の」ということが明確になっています。
実際立てたのは不比等の息子、藤原宇合。
夢の中に薬師如来が出て、定恵がどうのと言ったから云々、という
由来が伝わっていますが、つまりはこういうこと。
「会った事もないけれどさ、定恵叔父さんって・・・。
なんだったんだろうな叔父さん。
・・・俺、寺建てるわ。叔父さん記念の。」
ま、そんな感じじゃない?
と思いたいだけ。
そこのあなた!
男として生まれた以上、
いつかは「一国一城の主」になってみたくないですか!?
そうですね、あなたのように、
一介の武将として生まれたからには当たり前の夢ですね!
そんな武将のあなたにビッグチャンスです!
「中津城の購入保存を」 大分、福岡の歴史愛好家 6団体が市に陳情
中津市の中津城天守閣が売りに出されている問題で、
同市や福岡県吉富、上毛両町の郷土史愛好家の6団体が22日、
市役所を訪れ、市と市議会に市が購入することを求める陳情を行った。
中津城は近世城郭としては九州最古。
1588(天正16)年に戦国大名の黒田如水が築城を始め、
本丸と二の丸、三の丸、二十二の櫓(やぐら)などが設けられた。
天守閣は鉄筋5階建てで、
1964年に最後の城主だった奥平家が市民の寄付などを受けて建設。
同家子孫の奥平政幸氏が代表取締役を務める「中津勧業」が建物を、
代表役員を務める「奥平神社」が土地を所有しており、
7月末に奥平氏が隣接する神社の土地も含めて
売却する意向を示していることが明らかになっていた。
2007/08/23付 西日本新聞 より抜粋
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そこのあなた、
これは千載一遇のビッグチャンスですよ!
お城のオーナーになれるかもしれません。
・ オーナー少なし (細川以降、小笠原と奥平)
・ デザイナーズ物件 (如水&細川忠興デザイン)
・ 頑丈な昭和コンクリート物件 (流行のレトロ物件)
・ 純和風建築 (なんせ天守閣)
・ モダンなリフォーム済 (再建模擬天守)
・ 川のほとりのステキ環境
・ 防犯対策完全 (城ですから)
どーうーでーすーかーそこのあなた。
物件概要
・ Wikipedia - 中津城
・ 中津市HP - 中津城
物件見取り図
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しかしびっくりしたのは
「中津城、奥平氏の所有だった」
ということ。
個人持ちの城(近年、自治体に権限委譲)として有名だったと言えば
かの犬山城の例がありますけれど、
城の土地と模擬天守とはいえ、近世立藩していた立派な大城郭が、
個人所有(法人登録ですけれど)だったなんて。
こういう例、他にも案外あるものなのでしょうか。