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「いけね、コロッケ踏んじゃった。」
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四条天皇


という天皇がいたんだ。
天皇というより少年。
なにせ即位した時が2歳だったし。
その頃は病弱なお父さん(後堀川天皇)もまだ生きてて、
御堀川上皇として、実質はお父さんが取り仕切っていたんだ。
院政っていうんだけどね。


難しいから、系図置いとく。
クリックでちょっと拡大。
四条天皇関連系図


時は鎌倉幕府が出来て間もない頃。

安徳天皇が平家と一緒に壇ノ浦に沈んで、
後鳥羽天皇が即位してなんだか権力盛り返して、
後鳥羽系の天皇を擁した後鳥羽上皇方と、
出来てまだ間もない、不安定な各勢力寄り合い所帯の鎌倉幕府とが
喧嘩になって(承久の乱)、
負けた側の首謀者・後鳥羽系列の天皇一族が一斉処分されちゃうんだ。


四条天皇のおじいさんというのが、守貞親王っていうんだけど、
兄の安徳天皇が死んだ後、
なぜだか自分は順番飛ばされて、
実弟の後鳥羽に天皇の位が行っちゃって、
そんな自分の境遇にガッカリして、出家しちゃってたんだ。
なんでそんなことになったのかはわからないんだけど。

ところが、承久の乱のせいで鎌倉幕府が、
「後鳥羽系の天皇は全部追放した。
次から後鳥羽系列の天皇は認めない!」
と言い出して、
後鳥羽系列の皇子は全部資格ナシになって、
じゃ守貞親王にチャンス到来!と思いきや、
もう出家してるから資格ナシ!ガッカリ!

じゃ他の適格者は?って探したら、
守貞親王の子供しかいなかったんだ。
当時まだ10歳。
でもしょうがないから即位させて後掘川天皇になった。
これがのちの、四条天皇のお父さんね。
でも10歳じゃ頼りないし、
当時は天皇の上に上皇がいて「院政」をやるのが慣例というか、
それでやっと安定体制だね、というところがあったから、
天皇のお父さん、
つまり守貞親王(でも出家済なので天皇にはなれなかった)を急遽、
「上皇」ということにして院政がスタートしたんだ。
「出家してるから天皇にはなれないけれど、
上皇にはそんなルールは聞いたことねぇよ!」
というみんな暗黙のなぁなぁで。

形式上は10歳の息子天皇が、親王の父親に「上皇号をあげた」形。


この守貞入道親王改め、高倉上皇は頑張ったんだ。
関係悪化してた鎌倉幕府と京都朝廷界とを、
どうにか仲直りさせることに一生懸命になって、
でも二年ぐらいしたら死んじゃったんだ。40歳ちょっと。



後堀川天皇、つまり四条天皇のお父さんは、病弱だったんだ。
10歳で即位して、2年後にじーちゃんが死んで、それから天皇だったんだ。
でも早く院政にして安定させたいし、そもそも病弱だったから、
19歳の時に生まれた四条天皇にさっさと位を譲って、
自分は上皇になったんだ。
後堀川上皇21歳。四条天皇はまだ2歳。

で、それから2年ぐらいして、
御堀川天皇(上皇)はあっさり死んじゃった。
享年23歳ぐらい。
ちょ・・・
で、でも病弱だったし。

しかし、さすがに早死に過ぎるから
「怨霊か!?さては怨霊の仕業!?やっぱ怨霊かな!?」
と言われたりしたけれど、
そもそも病弱だったし。



というわけで孤児になっちゃった四条天皇には、他の男兄弟はいなかったんだ。
政務は母方のじいちゃん(九条道家)とかがなんとかしてくれてたんだけど、
結局、”非・後鳥羽系の皇位の継承”が、
四条天皇一人の運命にかかることになっちゃって、
これはかなりピンチな状況。
早く健康に大きくなって、結婚もして、次の代と育てなきゃ。

なんだか不思議な「彗星に祟られ」て寝込んだりもしたけれど、
でもどうにか12歳まで成長したんだ。


・・・12歳っていったらさー、
天皇とはいっても少年真っ盛りじゃん?
だからいろいろやってみたいじゃん?
四条天皇くんは宮廷の人を驚かせようと思って、
御所の廊下に、滑る石で細工をしたんだ。
そこを歩いてくる人が滑って転んであっはっはっ、という悪戯だったんだ。



四条天皇はその仕掛けを自らチェック中、誤って転倒。


ほぼ即死したと伝わる。享年12歳。
死因は脳挫傷と推定される。





非・後鳥羽上皇系の血脈、これにて断絶。







~その後~

これにより朝廷や鎌倉幕府は大混乱となり、天皇がいない状態が11日間続いた。
( ※・一瞬でも「天皇空位」という状況は、過去450年以上なかったこと。 )
鎌倉幕府はいやいやながらも他に選択肢もなく、
少しでも鎌倉に縁がある、
でも天敵の後鳥羽の孫に当たる後嵯峨天皇が即位することになった。
他にロクな選択肢がなかったから・・・。

後嵯峨天皇は即位前、ものすごく貧乏していて、
20歳にもなるのに元服もできず、
かといって出家も出来ずにいたところだった。

後鳥羽の息子である父天皇も流されて、
母方の貴族の家にいたけれどそこも落ちぶれてて、
幕府への反逆者=後鳥羽の孫の自分には、
永遠に彼には皇位は回ってこない予定だったし。

このスリップ事故は彼にだけは、本当にラッキーだった。



~おまけ~

実は四条天皇より不幸かもしれない人がいる。
系図右下の「仲恭天皇」。
この天皇は、
1218年、生まれる。
1221年4月、三歳で、じーさんたちの承久の乱準備のために即位。
7月、承久の乱失敗。廃位。摂政だった九条道家の家に預けられる。
1234年、死亡。享年17歳。
長らく即位したと認められず、歴史の穴扱いだった。
現在は即位したことになっているけれど、
日本史上、天皇在位最短記録保持者(三ヶ月)。


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藤原行成


平安時代の貴族にして書家。
和様といわれる書体を確立したとして、
行成を含めて「三蹟」と呼ばれる他の二人、小野道風、藤原佐理らよりも
一段高い評価を受けている。


・・・なのだけどさ、
この人の人生も、なんだかなぁ、と思うところがあるわけで。



えーと、
めんどくさくなるので、渾身の作の家系図置いときます。

藤原行成関連系図
(クリックで別窓拡大)

数字は「摂関の襲名順」。
つまりその時のナンバーワンが誰だったのか、ということ。
いろんなものが見えるのです。
たとえば1と2の間の時平はなぜなってないの?というと、
最大級のライバル菅原道真がいたから・・・
3のあと息子に行かなかったのはなぜかというと、
天皇の外戚になり損ねた&息子が割と早死にしたから。
5と7の間が不自然なのは、
その兄弟仲悪くって、5が7にどうしても権力委譲したくなかったから。
そのあと不自然に道長(10)まで横流れするのは、
みんなボロボロ若死にしたから。




さて、藤原行成ですが。

天皇の外戚として、藤原氏のナンバーワンとして権勢を振るった、
一条摂政謙徳公・藤原伊尹の孫に生まれました。
お父さんはその御曹司でかつ、美貌の歌人で知られた藤原義孝。
かつ、
行成は生まれた直後に、偉大なる爺さんの養子になったのです。


ここまでは順風満帆。っていうか普通の人にはあり得ない境遇。


ところが、
その年の内に権勢を振るった爺さんが死亡。
二年後に父・義孝も21歳で死亡。
おまけにこの死因、
美男子だったのに、疱瘡で顔が醜くなったのを悲しんで自殺した
とも言われている。
勝手な親父だよおい。息子どうすんのよ!?
おまけにそのあと
「ブサイクになったのが悔しくて悔しくて怨霊になった」とも言われてるのです。
どこまで勝手なんだ親父!


お陰でこの家系没落。


これほどの血筋の御曹司なら本来、
順調に後ろ盾があれば、10代前半でもういい位貰って、
20前にはすごい高い位置へ行っちゃうのだけれど、
爺さんはいない。親父はいない。親戚同士は権力闘争。
なんの後ろ盾もない”かつての御曹司”・行成は、
20過ぎても大した位も仕事もなく、ただ下っ端のほうの仕事をこなしていた。
毎日の日記をつけ始めたのもこの頃です。


ところが転機が、というか事件が訪れるのです。


ある日、天皇の御前で、和歌に関する議論が起こったのです。
一方の当事者は行成その人。
相手は売り出し中の青年貴公子、藤原実方
この議論、地味だけどでも行成は一歩も引かなかった。
で、相手の青年貴族はお坊ちゃん育ち。
おまけに普段から気性が荒くて有名だったのです。
むっかーーーー!もしかして俺のことバカにしてるぅ!?
と、持ってた勺(しゃく)で行成の頭をぱーんと叩いてしまった。

そしたら、烏帽子が落ちた

当時烏帽子が落ちて、素頭を見せちゃうことを「露頂」といって、
凄まじく恥ずかしいことだとされていたのです。
露頂しちゃって引き篭もった人もいるぐらいです。
えーと、現代感覚で言うなら、人前でパンツ下ろされて、
そのままブレーンバスターで振り回されてる、と思ってください。

座の一同が「うわーめっちゃやっべええーーーーー!」となったのだけれど、
行成は全く慌てず、
雑用係に言って拾ってもらってそっと被りなおして、終了。
怒る事もありませんでした。
ここいら辺は、さすがに下積みが長いだけあったのか、
地味な自分と違って、
相手の敵わない身分や敵わない後ろ盾を感じていたのか。


しかしながら、ここに激怒している人がひとりいました。
結構モーレツで知られた当時の天皇です。
実方をちょっと来いやぁーわれぇー!、と呼びまして、

「お前よー、そんなに激論するほど和歌好きなんだろ?
じゃあさ、歌枕(歌に読み込まれる諸国の地名・名物。都育ちの公家は当然見たことない)
ってのさ、実際に見て来いよああああああん?天皇命令。

という風流な理由で、陸奥国つまり東北つまり当時の感覚では世界の果てへ、
「陸奥守」、つまりは左遷と言う名の島流しにしてしまいます。
実方は任地だか行路だかで死亡。
その後は怨霊化したと言われています。
この時代、なんでも怨霊だなぁ。


「それにしてもあの下っ端貴族、
下っ端だからあんまり見たことないけど、いい根性してるじゃないか。」
天皇がそう思ってた所、行成には更なる幸運が舞い込むのです。


ただしこれは実は幸運ではない。行成の人徳。
行成の親友にして、天皇のお気に入りの源俊賢が、昇進することになりました。
彼がいままで長く勤めていたのは、天皇の側近中の側近であり、
その後の出世確実な要職である「蔵人頭」。
みんなが羨むポジションで、当然各派閥の猟官暗躍が予想されます。
「俊賢さぁ、お前が昇進するとポスト空くじゃん?蔵人頭、誰がいいと思う?」
と聞かれて俊賢は待ってました!と
「実は心当たりがあるんですよ。
そいつのこと、帝も知ってますよ。
実直で、権力争いとは無縁で、でも家柄はいいのが。」


というわけで、
出世階段数段ひらりと飛び越えて、
鳴かず飛ばずの後見も無しの地下貴族、藤原行成が
世間をあっと言わせる大抜擢をされることになりました。行成23歳。

ただしここには、
13歳年上の醍醐源氏一派のリーダー・源俊賢の、
自分に有利な人事で権力構築、という目的もあり、
その背後にはオレ派閥を着々と構成しつつある、
時の大権力者・藤原道長の存在があったことは否定できません。


かの有名な、時の国家を全て意のままに操るほどの男・藤原道長。
でもこの道長は実は、
行成のお爺さんから見ると「弟の家系」「それも端っこ」にあたるのです。
大権力者の爺さんと、
あの美貌の父ちゃんがもう少し長生きしていたら、
この弟の家系への権力の軸の移動は、なかったかもしれないのです。
つまり、
本来この道長と行成の地位は、逆だったかも知れないのです。
華やかな、世界の中心に立つ光の道長と、
その権勢の一端を担いつつ、その権勢によって生きている墨蹟の如き自分。


そのことを本人は、どう思っていたかはわからないけれど。


行成は道長と帝の両方から信頼を寄せられ、
蔵人頭からあとは要職や実入りのいい職を歴任します。
位もコツコツどんどん上がっていきます。
また若い頃の下積みと勉強がモノを言って、
「宮廷行事のあれこれ細かいことに詳しい人」
いわゆる”有職故実”通として珍重されます。
行成がメモった宮廷行事マニュアルが、
後々まで基本マニュアルとして使用されたぐらい、
彼の仕事はきっちりしていたのです。


また、当時から「書の達人」として有名でした。
(のち行成の家系は、書道の名家として続いていきます。)


ある時、道長から自分が持ってない本を借ります。
当時は本を借りたら、自分で書き写すものでした。
コピーです。人力コピー。
お陰で字の間違いとか、同じ書物なのに
なんとか院本とかなんとか家本とかいろいろ出来ちゃうのですけれど。
借りた本は比叡山の高僧・源信が書いた「往生要集」。
当時流行ってた末世とかそういったブームの解説本というか、
つまりは
「死んだらお前も極楽へ行ける!かんたん極楽往生マニュアル」。
日本を越えて海外・中国でもブームになった本です。
これを行成は借りて、人力コピーします。
で、返しに行った時に道長はこう言ったのです。

「・・・なんだよー、これ、俺が貸したほうの本じゃん。
”お前が書き写したほう”が欲しかったのによー(笑)」



・・・道長という人にはこういう、”ひとたらし”的な部分があります。
大権力者なのに軽率なぐらい気軽な部分があり、
味方には最大限に甘く、敵にはとことん厳しい人なのです。

前述したように、道長に対していろんな感情はあるかもしれません。
それでも書家として、こんなこと言われたらどう思うでしょうか?
アーティストとして!


晩年も順調に、最大で、正二位大納言。
そんな高い高いところまで出世します。
有職故実。書家としても声望高く。
もはや立派な大貴族です。


そして、最後の事件が起こるのです。
行成の人生の全てを簡潔に表すような事件が。


生前にあれほど声望のあった立派な貴族にして書家、
そんな行成が死んだのです。
結構な大イベントのはずなのです。
享年五十歳。当時としてはまぁそんなもの。


ただし、


同年同月同日、藤原道長死亡。


ここに、光と影が同時に死亡、ということになりました。

世間は時の大権力者の死に大騒ぎとなりました。
なんせ絶対権力者だったわけで、もう国が転覆したぐらいの勢いです。
かつ、その後継の代になると確実に、
政治がちょっと不安定になる予感を、誰もが感じていたのです。





というわけで、行成の死は当時、全く話題になりませんでした。
しょぼーん。



「もしかしたら藤原道長になっていたかもしれない、道長の影の男」
そんな行成。

でも怨霊にはならなかった。
影は影らしく黒々と、
柔らかくそれでいて力ある「和様」の墨蹟を今に残しております。

書道を勉強する上では、避けては通れないほどのビッグネームとなって。






「藤原氏」


日本の歴史を語る上で、天皇家の次になくてはならない、
というかダブル主役級と言ってもいい一族。
上は位人臣を極める位置から、下は名もなきに等しい地方武士。
というか現代ではパーフェクト平民までが藤原氏。

そんな藤原氏は、たったひとつの血脈から発生しているのは、
小学校レベルの日本史知識だと思う。

中臣鎌足(藤原鎌足) --- 藤原不比等 --- ・・・

ここから、全ての藤原氏が始まっている。
この不比等の、
つまり全国藤原氏の共通のご先祖の墓が、
近年発見されたりしたこともあるのだけれど、
まぁそれはいつかの機会に置いといて、
実はこの藤原不比等、
鎌足の次男だったことはあまり知られていないのです。

「じゃあ長男はどこ行っちゃったんだ?
よくある早世?」

というわけではなく、立派に成人しているのです。



藤原不比等は次男。
兄の名前は「藤原真人」と言います。

なにしろ聡明で、勉強大好きで、
一度読んだ本は忘れなかったとか。
父・鎌足はそんな息子に期待をかけて「真人」と名乗らせます。
真の人、「パーフェクトマン」ですよ。
つかそもそもパーフェクトマンとか、
「だれも等しく比べようがない(不可能)」=不比等、とか、
鎌足、息子に期待し過ぎです。

そして不可解なのは、
鎌足ったらそんな息子に大きく期待した上で、
「出家させちゃう」
のです。ハァ?


出家して「定恵」と名乗ります。定慧、貞恵とも。


当時は仏教はそりゃ流行中の最先端の文化でしたけれど、
だからって時の実際の最高権力者にも等しい鎌足が、
なんでまた優秀な長男を・・・?と疑問が湧くわけなのです。

生まれたのが643年。
たぶん本を読み出したのがそれから数年後、
それで期待して出家させるのはさらに数年後。
大化の改新で鎌足と中大兄皇子が権力を掌握するのが645年。
その後鎌足は、多少の動乱期ではあるにしても、
中大兄皇子の側近として実際の権力を手中にしているわけですから、
なにもこの局面で、長男を出家させなくても・・・となるのです。

これには諸説あるらしく、なんとも言い難いらしいのですが。

「なにせ神祇系の中臣氏、仏教勢力とは距離があった。
だから仏教勢力(海外勢力)を取り込もうとした」
「朝廷内の旧勢力に対する、
”中臣氏はそんなに繁栄する意志はないですよ”というポーズ」
「不比等の同母兄とされているが、実は違う」
「実はそもそも鎌足の子供ではない」
「留学に有利だったから (後述)」

などなど。
でも鎌足父ちゃん(親バカ)は一応、
留学経験もある日本最高レベルの僧侶の下で出家させているので、
ある程度大事にしてたというのは窺い知れるのです。

そしてこの定恵もまた、留学に出るのです。
第二回遣唐使団に入り、はるばる唐を目指します。
・・・無茶するなぁ、と。
この当時の遣唐使は、行きに博打、帰りに博打な、
「生きて帰ってきたらすごくラッキーだね」
という旅なのです。
実際この第二回でも、遭難者(船)が出ています。
それも643年生まれの第二回遣唐使が653年だから。
・・・10歳ってそれ無茶し過ぎじゃないかと。

しかし定恵くんは無事に唐に入国します。
唐の都、長安にて、かの玄奘三蔵の弟子に相当する僧に付き、
いろんな本を読んで、いろいろ遊学して、
12年間の留学生活を送った定恵は、
655年、唐から大和朝廷への使節に同行して、無事帰国します。

この途中、大和朝廷と仲がよかった百済に寄り道しまして、
そこで、
「四行詩読んで遊ぼうぜ」「いいよー」「じゃ最初は定恵な、」「んーと、じゃあ」
と切り出した二行が素晴らしすぎて、
誰も続き二行がつけられなかった、という伝説が残っています。

で、これがほとんど唯一のエピソードになります。

帰国した彼を待っていたのは、
もはや日本の人臣最高権力者というほどに登りつめた父親鎌足、
そして留学中に生まれた弟、不比等くん七歳。

さぁ、期待の息子が帰朝しました。出家してますけれど・・・。
これから、かの鎌足の長男として、留学帰りのエリート青年として、
素晴らしい活躍が見込まれるのです。

という舞台に登った途端、帰朝後3ヶ月で死亡。享年23歳・・・。

なんでも、
百済の某が定恵の才能に嫉妬して、
ムカつくので毒殺した、と伝わっております・・・。



父に先立つこと4年。
鎌足死亡後に、まだ幼い総領(不比等)を擁する、
朝廷内の新興勢力である藤原氏が多少動揺した史実を考えると、
この長男が俗体で、健康で生きていたらどんなにか、と。

ま、死んじゃったものはしょうがない。



この定恵が開祖と伝えられる寺(神社)が全国に数ヶ所、
特に有名なのが三ヶ所残っております。
ひとつは奈良県桜井市の聖林寺。
聖林寺ホームページ
ここは後述する談山神社の元となった寺の別院だそうで。
で、同じく桜井の談山神社。
談山神社公式サイト
全国藤原氏の頂点に君臨するこの談山神社はそもそも、
藤原一族の祖・鎌足の死後、
摂津国にあった鎌足の墓をここに移し、寺を建立したのが始まりだそうで。
定恵が。
・・・いや、定恵が先に死んでますから。
っていうかその寺建立した年にはもう死んでますから。
それと鎌足の墓は摂津のその地点にありまして、近年発掘されましたから。

でも、
元明天皇が死んだ時(721年)、陵地選定したのが定恵という説もあり。
その頃70歳過ぎかな、計算上では。


で、もう一ヶ所は神戸にある太山寺。
三身山太山寺
ここは開祖が定恵となっていますが、
「それは名目上の」ということが明確になっています。
実際立てたのは不比等の息子、藤原宇合。
夢の中に薬師如来が出て、定恵がどうのと言ったから云々、という
由来が伝わっていますが、つまりはこういうこと。



「会った事もないけれどさ、定恵叔父さんって・・・。
なんだったんだろうな叔父さん。
・・・俺、寺建てるわ。叔父さん記念の。」



ま、そんな感じじゃない?

と思いたいだけ。




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